今年は正月から雪に埋もれている。住居に使っている方の家屋は
今年は戌年。イヌで思い浮かぶのは森山大道の〈三沢の犬〉、それと中上健次の矢の川峠のイヌ。そう思って、あれは「紀州」だったか「熊野集」だったかと「熊野集」をペラペラとめくっていると、短編「熊の背中に乗って」に見つかった。しかし、それはイヌではなく狐だった。その私の思い込みは、それに続くイヌにまつわる文章に依るようだ。
狐といえばイヌの話が出る。犬と漢字を当てるより狗と当てたほうが、いぬ(去ぬ)、さる(去る)の二つの獣に対して古人が抱いた思いが、むくむくと立ち顕れる気がするが、そのイヌとは随分深く関わりがある。
―中上健次 「熊の背中に乗って」 (『熊野集』 255頁)
狗という字が、それ以来頭に焼きつく。そして
銀まだらのそれが私の前に現れたのは二度目だった。(中略)それは尻尾を股の間にはさんで、私の箱バンと同じ進行方向に歩いている道路工事の人夫を見て安全を確かめるように距離を目測し積み重ねられたビニール袋を破って顔を中に突っ込み残飯をあさっていた。オオカミだと見えたことが嘘のようにやせた貧相な体つきで、(中略)人夫が石をひろうふりをすると、それは顔を上げて体を逃げる体勢に持ってゆき、投げるふりをするとすばやく走り出した。(中略)私がいまここで思い出すのは、その銀まだらのイヌに失望したにもかかわらず、そのイヌが好きだ、おぞましくあさましいもの、日本的に言えば賎なるものがそれゆえに光り輝いていると思ったことだった。
―前掲書 263頁
これらの文章が矢の川峠の狐の描写に重なり、矢の川峠のイヌの思い込みが生まれた。そしてそのイメージは三沢のイヌへとつながってゆく。
オオカミの野性があればイヌの野性もある。うちでは猫を三匹飼っているがネコの野性というものもある。ネコの野性は外向するが、イヌの野性は内向し屈折する。屈折し内向した野性を、内面などからではなく、肉体の深みから(ル・クレジオ)、創作へと昇華する。
そうできればと思っている。
参考文献(Amazon.co.jp)
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