カテゴリー「人文学」の記事

面白き事は良きことなり

  • 投稿者:Sigeru
  • 2008年5月14日(水)16時45分
「四畳半神話体系」

京都はのんびりした古風なところがあるけれども、どこか殺伐とした血の匂いのようなものを感じる事がある。

Yutaが図書館から借りて読んでいた森見登美彦「太陽の塔」を読んでみたら、次々と借りて読む羽目になってしまった。

森見登美彦の小説は、そのような京都の特質を生かしたエンタテイメントになっている。京都を書割にして芝居を見ているという趣だ。脚本を変えたそれぞれの公演を見るような「四畳半」はいうにおよばず、どの小説でも章ごとに舞台転換が行われ、店の名、人物、描写が使い回しされ、芝居の中に読者を引き込んでゆく。芝居とは究極のマンネリズムなのだから。

森見の小説は、夜が更けるに従い気持ちが冴え高揚してきて不可能なものは何もないという妄想と、どこにも根拠をおく事も出来ず、とてつもない不安の中で目覚める朝の気分を同時に描いたご都合主義きわまる代物だ。

登場人物が、同じ京都を舞台にした、西尾維新の「戯言遣いシリーズ」とダブってみえるのも、妖しげな京都の夜風のなせる偶然だろうか。

とにかく小説は読んで楽しめればいい。面白きことは良きことなり。それも阿呆の血のしからしむところなり。

風花 香炉とカップ


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『エレクトラ 中上健次の生涯』を読んで

  • 投稿者:Sigeru
  • 2008年5月9日(金)16時41分

マキノ図書館に高山文彦の『エレクトラ』が入っていた。借りて読む。副題は、「中上健次の生涯」。

エレクトラ

小説家としての資質を背負って生まれた男が、小説家になろうと足掻き、もがき、その優れた資質のゆえに何度も何度も原稿を没にされ、ついに「岬」を書き、「枯木灘」に到る。

書きたいものがある。書きたいものがあることははっきりしている。だけど言葉が届かない。容易に届くなどとは思っていない。

それを信じ待っているものがある。

待ち続け支えた者のある中、ぎりぎりのところで秋幸の物語が生まれてきた。生まれるべくして生まれてきたその根のところから、丁寧に描かれてゆく。

人間が生きていくという事は何なのか。人間の尊厳。人間存在の重さ。

人間は自然の一部であり、さらに大きなものの一部でしかないかもしれない。しかしそれでもなお、人間は自然の一部ではないし、自然とは違う何か特別なものとしてあるという存在のありようから逃れる事が出来ない。

出自だけでなく、中上健次という人間のすべてをさらけ出し書く、というその一点に問いのすべてをかけていく。
中上健次がどういう人間かではなく,中上健次は何をさらけ出し、何を問い書こうとしたのかを書いた本であろう。さらけ出さねば書けなかったものが何か。

「岬」で一歩が開かれた。未曾有の一歩が開かれた。この本はそこへ到る物語だ。そして、「枯木灘」、「紀州 木の国・根の国物語」に言及する事で中上健次が小説家として書くという一点での苦闘、それこそすべてをさらけだしてなお足りない日々が暗示されている。

母系と父系….なぜ「エレクトラ」でなく「岬」なのか?表題にもなったテーマのほかに、語りと文字、文字によって書くという事….「紀州 木の国・根の国物語」での経験、「春日」ー「熊野大学」への思い入れ、等、興味深い記述も見られる。

岬

早すぎた死は、中上健次にとっての無念であり(まだまだ書きたい事があった。)、今なお私たちの無念でもある。

酷な言い方かもしれないが、残された数編の未完小説は無残ですらある。それは書かれたに違いない秋幸の物語への予感の大きさであろう。

中上健次の仕事は、人間存在の大きさに見合ったものだった。今、改めてそう感じる。

「僕はいま、それゆえに僕のなかにおこったすべてを実作者、現場者として引き受けなければいけないと思っている。」その事を小説家として書く事の一点に生きぬいた人間の物語を記憶に留め置くために書かれた本だ。

付け加えれば、編集者や同級生、ジャズビレッジの仲間、山口かすみとのやり取りの描写に、風評とは別に中上健次はこういう人ではないだろうかとの想像と重なるところに頷け、この本の作者は作家中上健次を、私と同じような受け入れ方をしているんだな、とうれしかった。

中上健次がもっと読まれてほしい。

「化粧」、「水の女」、「千年の愉楽」などの短編集の独特の語り口も魅力的だ。「日輪の翼」、「奇蹟」の中長編。

「地の果て 至上の時」は秋幸をひとたび不明にしてしまうための物語。

やはり、「岬」を、そして「枯木灘」をまず読んでほしい。


〈工房 アイオロス&風花〉

  • 投稿者:Sigeru
  • 2007年4月16日(月)1時13分

工房名を〈工房 アイオロス & 風花〉にかえる。アイオロスは、風神。

〈陶工房 Sigeru & 風花〉の陶を消し、風花は風花のままに、Sigeru は風になる。....風に〈わたし〉はなく、作用だけがある。

再び、鷲田清一から引用。

歌うこと、それはわたしが別のだれかに、ある意味内容をもったメッセージとか情報を伝えることではない。〈わたし〉という人称のなかに閉じこもったふたりが向きあうことではない。それは、わたし、あなた、かれといった人称の境界をいわば溶かせるようなかたちで、複数の〈いのち〉の核が共振する現象とでもいうべきものだ。あるいは、現象学者、メルロ=ポンティの言いまわしを借りて、「〈わたし〉よりももっと古いわたし」たちがその身体ごと共鳴する現象と言ってもよい。

――鷲田清一『「聴く」ことの力』[別窓]124頁

追記(2008年3月5日)

結局、翌3月にウェブサイトの新規構築に伴い、「Sigeru & 風花」という従来の工房名をそれなりに残した上での、「滋風」という名を採用した。

アイオロスという象徴の中にあった響きは、この幾分シンプルな名において、むしろ、より自由な調べとなることができるかもしれない。

もてなし 〈キッチン桔梗屋〉

  • 投稿者:Sigeru
  • 2007年3月20日(火)14時57分

客をもてなすということ。鷲田清一がルネ・シェレールの言葉を引用しながらこう書いている。

他者を迎え入れること、それは他者を「われわれ」のうちに併合することではない。すなわち,他者をサプロプリエする(s'approprier = 同化する、専有する、横領する)ことではない。それはむしろ、自己を差しだすことであり、その意味で他者とのぬきさしならぬ関係、関係が意味を決めるのであって〈わたし〉が関係の意味を決めるのではないような他者との関係の中に、傷つくこともいとわずにみずからを挿入してゆくことである。

――鷲田清一『「聴く」ことの力』[別窓]136頁

主人(ホスト)は客をみずからの家に迎え入れる。そして主人の場所へ客を据える。[中略]そこでは客が主人になるからである。すると、本来の主人は客の客となる。客の客として客に接することになる。

――上掲書147頁

せっかく京都へ出てきたので、悠太の大学合格を、よかったなあ、おめでとうとどこか気持ちのいい店でささやかでいいから祝いたいなあと思っていた。前の晩に美樹(風花)と悠太で少し古い雑誌を取り出してきて、北白川にあるキッチン桔梗屋という店に行く事に決める。

扉を開け店に入ると、はじめてなのにからだの力を抜いてくれるやわらかい空気を感じる。「円山公園からこのあたりまで思ったより近いんやなあ」と言うわたしたちの会話に、「ええ、道が混んでない時には・・・」と、となりのテーブルを片付けながら亭主が受ける。ラッキーだったんだ。京都中が渋滞する時期には少し早くて。

四人各様に注文したメインデイッシュを見て味見に少しづつトレードしあおうという会話に、小皿が四客「どうぞ」と持ってこられた。美樹が注文したサーモン入りの山芋のグラタンは秀逸だった。コーヒーとケーキ(これがまたなかなかなもの)をほどよい充実感のなかで味わう。

客がごくふつうに望むことを、ごくふつうにもてなしとして返す。そこには、足し算ではない贅沢がある。「気持ちのいい店でささやかな祝いをしたい」という望みを充分にかなえてくれる店だった。

戌年の狗

  • 投稿者:Sigeru
  • 2006年1月7日(土)8時05分

今年は正月から雪に埋もれている。住居に使っている方の家屋はかね勾配で鉄板なので、雪が落ちてくれるが、仕事場のほうは、それほど傾斜をつけてる訳でもなく、アスファルト・シングルなので雪が積もりっぱなし。昨日、心配なので息子と二人で雪下ろしをする。測ると1m20cmあった。東北や北陸のことを思えばまだましなほう。

今年は戌年。イヌで思い浮かぶのは森山大道の〈三沢の犬〉、それと中上健次の矢の川峠のイヌ。そう思って、あれは「紀州」だったか「熊野集」だったかと「熊野集」をペラペラとめくっていると、短編「熊の背中に乗って」に見つかった。しかし、それはイヌではなく狐だった。その私の思い込みは、それに続くイヌにまつわる文章に依るようだ。

狐といえばイヌの話が出る。犬と漢字を当てるより狗と当てたほうが、いぬ(去ぬ)、さる(去る)の二つの獣に対して古人が抱いた思いが、むくむくと立ち顕れる気がするが、そのイヌとは随分深く関わりがある。

中上健次 「熊の背中に乗って」 (『熊野集』 255頁)

狗という字が、それ以来頭に焼きつく。そして

銀まだらのそれが私の前に現れたのは二度目だった。(中略)それは尻尾を股の間にはさんで、私の箱バンと同じ進行方向に歩いている道路工事の人夫を見て安全を確かめるように距離を目測し積み重ねられたビニール袋を破って顔を中に突っ込み残飯をあさっていた。オオカミだと見えたことが嘘のようにやせた貧相な体つきで、(中略)人夫が石をひろうふりをすると、それは顔を上げて体を逃げる体勢に持ってゆき、投げるふりをするとすばやく走り出した。(中略)私がいまここで思い出すのは、その銀まだらのイヌに失望したにもかかわらず、そのイヌが好きだ、おぞましくあさましいもの、日本的に言えば賎なるものがそれゆえに光り輝いていると思ったことだった。

前掲書 263頁

これらの文章が矢の川峠の狐の描写に重なり、矢の川峠のイヌの思い込みが生まれた。そしてそのイメージは三沢のイヌへとつながってゆく。

オオカミの野性があればイヌの野性もある。うちでは猫を三匹飼っているがネコの野性というものもある。ネコの野性は外向するが、イヌの野性は内向し屈折する。屈折し内向した野性を、内面などからではなく、肉体の深みから(ル・クレジオ)、創作へと昇華する。

そうできればと思っている。

参考文献(Amazon.co.jp

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