客をもてなすということ。鷲田清一がルネ・シェレールの言葉を引用しながらこう書いている。
他者を迎え入れること、それは他者を「われわれ」のうちに併合することではない。すなわち,他者をサプロプリエする(s'approprier = 同化する、専有する、横領する)ことではない。それはむしろ、自己を差しだすことであり、その意味で他者とのぬきさしならぬ関係、関係が意味を決めるのであって〈わたし〉が関係の意味を決めるのではないような他者との関係の中に、傷つくこともいとわずにみずからを挿入してゆくことである。
主人(ホスト)は客をみずからの家に迎え入れる。そして主人の場所へ客を据える。[中略]そこでは客が主人になるからである。すると、本来の主人は客の客となる。客の客として客に接することになる。
――上掲書147頁
せっかく京都へ出てきたので、悠太の大学合格を、よかったなあ、おめでとうとどこか気持ちのいい店でささやかでいいから祝いたいなあと思っていた。前の晩に美樹(風花)と悠太で少し古い雑誌を取り出してきて、北白川にあるキッチン桔梗屋という店に行く事に決める。
扉を開け店に入ると、はじめてなのにからだの力を抜いてくれるやわらかい空気を感じる。「円山公園からこのあたりまで思ったより近いんやなあ」と言うわたしたちの会話に、「ええ、道が混んでない時には・・・」と、となりのテーブルを片付けながら亭主が受ける。ラッキーだったんだ。京都中が渋滞する時期には少し早くて。
四人各様に注文したメインデイッシュを見て味見に少しづつトレードしあおうという会話に、小皿が四客「どうぞ」と持ってこられた。美樹が注文したサーモン入りの山芋のグラタンは秀逸だった。コーヒーとケーキ(これがまたなかなかなもの)をほどよい充実感のなかで味わう。
客がごくふつうに望むことを、ごくふつうにもてなしとして返す。そこには、足し算ではない贅沢がある。「気持ちのいい店でささやかな祝いをしたい」という望みを充分にかなえてくれる店だった。