「風花の器」展 at さろん淳平 2022.6.1.~6.5.
- 2022年6月13日(月)12時10分
大阪梅田に、風花、ユウタと三人で森山大道の写真展「凶区」を見に行く。
森山大道の写真は、街を臭覚によって切り取る。それだけだと、街に潜む猥雑な野生を映し出すという類の写真になってしまうが、そんな限定されたものにならないのは、臭覚を写真の印画の白と黒、そして焼きこまれることから立ち顕われる光に転移してしまうからだ。
何を撮っているかという、既存の意味による分類(それを、体制といってもいい)をとっぱらい、写真そのものの肌理、質感によってコミュニケートしてくるものがある。
会場となったHEP FIVEが写った大阪の街、神戸を俯瞰した画面にも、港や空港、ハイウエイ、ガードや路地、ごった返す路面、一面の向日葵畑。どれにも、私の肉体にさざ波を起こす光が、白黒のコントラストの中から広がってきた。印象に残る写真というものもあるが、見たということの全体が、今も私の何かをざわつかせている。
photo(風花)
バッコスの酒宴。ヨシ兄の幻想譚、チンギスハーン、イーグルの詩、ノマドの宴。
蠅の王、父親殺しの物語。
何も考えたくなかった。ただ鳴き交う蝉の音に呼吸を合わせ、体の中をがらんどうにしようと思った。つるはしをふるった。土は柔らかかった。力を入れて起こすと土は裂けた。また秋幸の腕はつるはしを持ちあげ、呼吸をつめて腹に力が入る。土に打ちつける。蝉の声が幾つにも重なり、それが耳の間から秋幸の体の中に入り込む。呼吸の音が蝉の波打つ声に重なる。つるはしをふるう体は先ほどとは嘘のように軽くなった。筋肉が素直に動いた。それは秋幸が十九で土方仕事についてからいつも感じることなのだった。秋幸はいま一本の草となんら変わらない。風景に染まり、蝉の声、草の葉ずれの音楽を、丁度なかが空洞になった草の茎のような体の中に入れた秋幸を秋幸自身が見れないだけだった。
中上健次「枯木灘」より
シーサー、技とも、美とも無縁の、生命そのものとしての、モノ。沖縄という名の血。
黄泉の国の哄笑、死者の輪舞、裸の生、生成の時。
童子の腹赤く輝く
五、六、七、美しき河水のそばに
おう赤き童子の群れよ
太陽の祖先の如き赤さもて
村山槐多 「童子群浴」より
血染めのラッパを吹き鳴らせ
耽美の風は濃く薄く
われらが胸にせまるなり
五月末日日は赤く
焦げてめぐれりなつかしく
ああされば
血染めのラッパを吹き鳴らせ
われらは武装を終へたれば。
村山槐多「四月短章」より
われ切に豪奢を思ふ
青梅のにほひの如く
感せまる園の日頃に
酒精なむる豪奢を。
村山槐多「青色廃園」より
H邸と、I邸の森の精…….
四月の陽を受け、開放された歓びに輝いています。これから、深くなる緑に、森の趣が濃くなってゆきます。
雪が溶け、大地が温まり、命の力が漲ろうとする時 天使の歌声、悪魔の囁き、竈の守り神、朝の食卓の破壊者 道化者、デーモンのお出ましだ
シーサー 狛犬 狗 もののけ 物の怪 精霊 守護者 守護神 悪魔 エンジェル ピエロ クラウン 悪霊 詩 歌 ポエム
岡崎の京都国立近代美術館に「アール・デコ・ジュエリーの世界」を見にいった。
シャルル・ジャコーのデザイン画。まるで、これを描く事に最高の快感を覚えていたのではないかと思ってしまう。壁面に適度な間隔をもって並べられた小品を、ときには戻りつしながらゆっくりと順に見てゆく。
この経験は何かに似ている。意味ではなく、言葉の持つ感触・・・ざらつきやなめらかさの肌理、光の屈折、透明になろうとしてなりきれない不透明な部分・・・に触発されて身体に広がってこようとするもの。それに翻弄されたり、戯れたり、哲学したり。詩の言葉を読む経験に似ていた。