マキノ図書館に高山文彦の『エレクトラ』が入っていた。借りて読む。副題は、「中上健次の生涯」。
小説家としての資質を背負って生まれた男が、小説家になろうと足掻き、もがき、その優れた資質のゆえに何度も何度も原稿を没にされ、ついに「岬」を書き、「枯木灘」に到る。
書きたいものがある。書きたいものがあることははっきりしている。だけど言葉が届かない。容易に届くなどとは思っていない。
それを信じ待っているものがある。
待ち続け支えた者のある中、ぎりぎりのところで秋幸の物語が生まれてきた。生まれるべくして生まれてきたその根のところから、丁寧に描かれてゆく。
人間が生きていくという事は何なのか。人間の尊厳。人間存在の重さ。
人間は自然の一部であり、さらに大きなものの一部でしかないかもしれない。しかしそれでもなお、人間は自然の一部ではないし、自然とは違う何か特別なものとしてあるという存在のありようから逃れる事が出来ない。
出自だけでなく、中上健次という人間のすべてをさらけ出し書く、というその一点に問いのすべてをかけていく。
中上健次がどういう人間かではなく,中上健次は何をさらけ出し、何を問い書こうとしたのかを書いた本であろう。さらけ出さねば書けなかったものが何か。
「岬」で一歩が開かれた。未曾有の一歩が開かれた。この本はそこへ到る物語だ。そして、「枯木灘」、「紀州 木の国・根の国物語」に言及する事で中上健次が小説家として書くという一点での苦闘、それこそすべてをさらけだしてなお足りない日々が暗示されている。
母系と父系….なぜ「エレクトラ」でなく「岬」なのか?表題にもなったテーマのほかに、語りと文字、文字によって書くという事….「紀州 木の国・根の国物語」での経験、「春日」ー「熊野大学」への思い入れ、等、興味深い記述も見られる。
早すぎた死は、中上健次にとっての無念であり(まだまだ書きたい事があった。)、今なお私たちの無念でもある。
酷な言い方かもしれないが、残された数編の未完小説は無残ですらある。それは書かれたに違いない秋幸の物語への予感の大きさであろう。
中上健次の仕事は、人間存在の大きさに見合ったものだった。今、改めてそう感じる。
「僕はいま、それゆえに僕のなかにおこったすべてを実作者、現場者として引き受けなければいけないと思っている。」その事を小説家として書く事の一点に生きぬいた人間の物語を記憶に留め置くために書かれた本だ。
付け加えれば、編集者や同級生、ジャズビレッジの仲間、山口かすみとのやり取りの描写に、風評とは別に中上健次はこういう人ではないだろうかとの想像と重なるところに頷け、この本の作者は作家中上健次を、私と同じような受け入れ方をしているんだな、とうれしかった。
中上健次がもっと読まれてほしい。
「化粧」、「水の女」、「千年の愉楽」などの短編集の独特の語り口も魅力的だ。「日輪の翼」、「奇蹟」の中長編。
「地の果て 至上の時」は秋幸をひとたび不明にしてしまうための物語。
やはり、「岬」を、そして「枯木灘」をまず読んでほしい。