5月25日、日曜日
大阪船場で、甥の結婚式があり、滋、風花、ユウタの三人で出かけた。
その後
梅田 HEP FIVEに森山大道の写真展「凶区」を見に行く。
PHOTO 風花
5月25日、日曜日
大阪船場で、甥の結婚式があり、滋、風花、ユウタの三人で出かけた。
その後
梅田 HEP FIVEに森山大道の写真展「凶区」を見に行く。
PHOTO 風花
大阪梅田に、風花、ユウタと三人で森山大道の写真展「凶区」を見に行く。
森山大道の写真は、街を臭覚によって切り取る。それだけだと、街に潜む猥雑な野生を映し出すという類の写真になってしまうが、そんな限定されたものにならないのは、臭覚を写真の印画の白と黒、そして焼きこまれることから立ち顕われる光に転移してしまうからだ。
何を撮っているかという、既存の意味による分類(それを、体制といってもいい)をとっぱらい、写真そのものの肌理、質感によってコミュニケートしてくるものがある。
会場となったHEP FIVEが写った大阪の街、神戸を俯瞰した画面にも、港や空港、ハイウエイ、ガードや路地、ごった返す路面、一面の向日葵畑。どれにも、私の肉体にさざ波を起こす光が、白黒のコントラストの中から広がってきた。印象に残る写真というものもあるが、見たということの全体が、今も私の何かをざわつかせている。
photo(風花)
京都はのんびりした古風なところがあるけれども、どこか殺伐とした血の匂いのようなものを感じる事がある。
Yutaが図書館から借りて読んでいた森見登美彦「太陽の塔」を読んでみたら、次々と借りて読む羽目になってしまった。
森見登美彦の小説は、そのような京都の特質を生かしたエンタテイメントになっている。京都を書割にして芝居を見ているという趣だ。脚本を変えたそれぞれの公演を見るような「四畳半」はいうにおよばず、どの小説でも章ごとに舞台転換が行われ、店の名、人物、描写が使い回しされ、芝居の中に読者を引き込んでゆく。芝居とは究極のマンネリズムなのだから。
森見の小説は、夜が更けるに従い気持ちが冴え高揚してきて不可能なものは何もないという妄想と、どこにも根拠をおく事も出来ず、とてつもない不安の中で目覚める朝の気分を同時に描いたご都合主義きわまる代物だ。
登場人物が、同じ京都を舞台にした、西尾維新の「戯言遣いシリーズ」とダブってみえるのも、妖しげな京都の夜風のなせる偶然だろうか。
とにかく小説は読んで楽しめればいい。面白きことは良きことなり。それも阿呆の血のしからしむところなり。
参考文献
イベント情報
有頂天家族 四畳半神話大系 夜は短し歩けよ乙女
マキノ図書館に高山文彦の『エレクトラ』が入っていた。借りて読む。副題は、「中上健次の生涯」。
小説家としての資質を背負って生まれた男が、小説家になろうと足掻き、もがき、その優れた資質のゆえに何度も何度も原稿を没にされ、ついに「岬」を書き、「枯木灘」に到る。
書きたいものがある。書きたいものがあることははっきりしている。だけど言葉が届かない。容易に届くなどとは思っていない。
それを信じ待っているものがある。
待ち続け支えた者のある中、ぎりぎりのところで秋幸の物語が生まれてきた。生まれるべくして生まれてきたその根のところから、丁寧に描かれてゆく。
人間が生きていくという事は何なのか。人間の尊厳。人間存在の重さ。
人間は自然の一部であり、さらに大きなものの一部でしかないかもしれない。しかしそれでもなお、人間は自然の一部ではないし、自然とは違う何か特別なものとしてあるという存在のありようから逃れる事が出来ない。
出自だけでなく、中上健次という人間のすべてをさらけ出し書く、というその一点に問いのすべてをかけていく。
中上健次がどういう人間かではなく,中上健次は何をさらけ出し、何を問い書こうとしたのかを書いた本であろう。さらけ出さねば書けなかったものが何か。
「岬」で一歩が開かれた。未曾有の一歩が開かれた。この本はそこへ到る物語だ。そして、「枯木灘」、「紀州 木の国・根の国物語」に言及する事で中上健次が小説家として書くという一点での苦闘、それこそすべてをさらけだしてなお足りない日々が暗示されている。
母系と父系….なぜ「エレクトラ」でなく「岬」なのか?表題にもなったテーマのほかに、語りと文字、文字によって書くという事….「紀州 木の国・根の国物語」での経験、「春日」ー「熊野大学」への思い入れ、等、興味深い記述も見られる。
早すぎた死は、中上健次にとっての無念であり(まだまだ書きたい事があった。)、今なお私たちの無念でもある。
酷な言い方かもしれないが、残された数編の未完小説は無残ですらある。それは書かれたに違いない秋幸の物語への予感の大きさであろう。
中上健次の仕事は、人間存在の大きさに見合ったものだった。今、改めてそう感じる。
「僕はいま、それゆえに僕のなかにおこったすべてを実作者、現場者として引き受けなければいけないと思っている。」その事を小説家として書く事の一点に生きぬいた人間の物語を記憶に留め置くために書かれた本だ。
付け加えれば、編集者や同級生、ジャズビレッジの仲間、山口かすみとのやり取りの描写に、風評とは別に中上健次はこういう人ではないだろうかとの想像と重なるところに頷け、この本の作者は作家中上健次を、私と同じような受け入れ方をしているんだな、とうれしかった。
中上健次がもっと読まれてほしい。
「化粧」、「水の女」、「千年の愉楽」などの短編集の独特の語り口も魅力的だ。「日輪の翼」、「奇蹟」の中長編。
「地の果て 至上の時」は秋幸をひとたび不明にしてしまうための物語。
やはり、「岬」を、そして「枯木灘」をまず読んでほしい。
5月12日から伊勢丹府中店で開かれる『酒器と湯呑展』に出展する器の一部です。
風花の注器とぐいのみ
滋の酒器とぐいのみ
父の日対応として昨年好評だった酒器と湯呑展が,今年も伊勢丹府中店で開かれます。普段使いに出来る、質が高くてお値打ちな作家ものの作品を一堂に集めた展覧会です。
Sigeru&風花 風花の食器 染付け 上絵付け 象嵌 猫 ねこ